飯豊山のへその緒

   寛永20(1643)年正四位下左近衛権中将兼肥後守保科正之が、出羽国山形20万石から陸奥国会津に加増転封になって入部した際の藩領は、現在の北会津地域と猪苗代湖南部及び越後国東蒲原郡を併せた23万石であり、また南会津地域及び下野国塩谷郡の天領南山御蔵入領5万5千石の支配も委ねられた。このほか19世紀になって内外の情勢が急になってくると、江戸湾警備のために相模国三浦半島や、蝦夷地警備ためにその東部を一時与えられ、会津中将松平容保が京都守護職に就くと山城・河内・和泉の国内に役知5万石をあてがわれた。「會」一文字を旗印とする会津藩は30万石を優に超える大大名であったのである。

慶応4(1868)年の会津戦争に降伏して藩地は廃藩置県を待たずに収公され若松県となり、ついで浜通りの磐前県と中通りの福島県とともに1876年福島県となった。だが福島の町は県域の北に偏り、また県下初めての市が若松市(1899)であるように、譜代わずか3万石の板倉家城下町では町の結構も貧相である。そこで福島県議会は断然県庁を郡山に移すべきことを決議した(1885)のだが、内務省は「賊軍がなにをいうか」とばかりに、翌年福島からもっとも遠い東蒲原郡を分離して新潟県に編入し、中央に楯突く地方の意向を踏みにじって問題を決着させた。

さてここからが本題である。飯豊山は古くからの信仰の山とされるが、人々がお山を崇めるのは姿の秀麗さより里から仰ぎ眺めることができることが前提である。飯豊連峰は山脈ではなく、山形・新潟・福島の3県に蟠踞する巨大な山塊である。山岳崇拝は鳥海や月山がそうであるように農耕儀礼と密接に結びつく。田畑の彼方にそびえてこその信仰の山であろう。とすれば、飯豊山には会津盆地こそしかるべきの地となる。

歴史に記された事実では、 天正18(1890)年秀吉の奥州仕置によって伊勢国松ヶ島から会津黒川42万石(のちに92万石)に入部した正四位下左少将蒲生氏郷によって、はじめて飯豊本山への登拝路が整備された。なお氏郷は黒川を出身地近江国日野の鎮守の杜の名から若松と改めたという。

お山への表参道は明治の地名では耶麻郡一ノ木村である。集落には飯豊山神社の麓宮がある。行ってみたら拝殿のみで本殿はない。これは遙拝殿であって本殿は本山南峰にある(頂上はそこから10分の北峰)。登拝路は川入から御沢キャンプ場まで車で入り、そこから下・中・上の十五里尾根をたどって地蔵山を左に巻き、美味なる水場から剣ヶ峰を経て三国岳山頂へ至る。ここは越後・陸奥(岩代)・出羽(羽前)三国の境である。

ここからアップダウンを繰り返し、1700mあたりを維持して切合小屋に。ここから草履塚に登って姥権現に下り、御秘所の難所を通って御前坂を営々と登れば神社のピークに辿り着く。ここまで歩行約8時間。9月16日の天候は晴から曇り、そして霧雨へと急速に変わっていった。本山小屋では終夜風雨の音が強かったが、明ければ霧の静謐が四囲を包んでいた。早暁本殿を参拝して2105mの山頂を踏み、そぼ降る雨に濡れて来た道を戻れば”いいでの湯”の宴が待っていた。展望なくとも山旅は楽しいものである。

地形図を広げると三国岳から飯豊本山を経て御西岳までの稜線が、県境と重なっているのではなく、あたかも二重山稜のように二本の県境で囲われていることに気づく。これは登山道と山頂が神社の境内であって、いずれも福島県に属していることを示している。2次元の形象はフニャフニャとして、誕生直後の新生児のへその緒のごとしである。

東蒲原郡が新潟県に編入された結果、飯豊本山及び神社本殿は実川村の行政区画に入ったのであるが、これでは「信仰の山」を崇める会津人としては承服できない。早くも1898年に、参道及び本殿と山頂が一ノ木村所在の飯豊山神社の境内であることを上申した。その結果1905年に内務大臣から編入許可を受け、最終的には1907年現在の県境が定まった。このあたり建前としての(政務より神事を先とする)祭政一致の明治国家、面目躍如である。

切合(きりあわせ)小屋の管理人さんは県の飛び地といったが、飛び地は東京都と和歌山県に例があるだけで、へその緒はつながっていなければ生命を育むことはできない。それにしてもこの県境物語も奇譚といえばそうである。令制の国と都道府県との整合性も無節操で、伝。統に対して謙虚ではないご都合主義が近代ニッポンにあるのは、官僚が自らの国ぶりに無知な証左ともいえよう。

会津を朝敵として追討したことも根拠のあることではない。若松市は1955年に会津若松市と改称したが、1986年に山口県萩市からの友好都市プロポーズを断ったのは小気味のいい話であった。加害者は水に流せる過去でも、被害者の感情は同じものではないからである。

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