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酔生夢死が理想ながら酒もほどほどとか言われる歳になってしまって・・ 明日できることを今日するな
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井手敏博の日々逍遥

ほっつき歩けば心にはさまざまの思いが浮かぶ、だからどうしたというのではないが。
June 28

聊斎志異 解題

 

 高等学校の漢文の教科書に『酒虫』というのがあっておもしろかった。早く高校なんておん出て酒でも煙草でもお天道様の下で堂々とのみたいと、ウズウズしていたころだから興味を惹いたのであろう。これはごく短い。(白文は原典、読み下しは拙)。

酒虫

長山劉氏、体肥嗜飲。毎独酌、輒尽一甕。負郭田三百畝、輒半種黍。而家豪富、不以飲為累也。一番僧見之、謂其身有異疾。劉答言、無。僧曰、君飲嘗不酔否。曰、有之。曰、此酒虫也。劉愕然、便求医療。曰、易耳。需何薬。倶言不須。但令於日中俯臥縶手足、去首半尺許、置良醞一器。移時、燥渇、思飲為極。酒香入鼻、饞火上熾、而苦不得飲。忽覚咽中暴癢、哇有物出、直堕酒中。解縛視之、赤肉長三寸許、蠕動如游魚、口眼悉備。劉驚謝。酬以金、不受、但乞其虫。問、将何用。曰、此酒之精、甕中貯水、入虫攪之、即成佳醸。劉使試之、果然。劉自是悪酒如仇。体漸痩、家亦日貧、後飲食至不能給。

 異史氏曰、日尽一石、無損其富、不飲一斗、適以益貧。豈飲啄固有数乎。或言、虫是劉之福、非劉之病。僧愚之以成其術。然歟否歟。

【読み下し】

 長山の劉氏は体肥え飲を嗜む。独酌するごとに一甕を尽くす。ふかくでん三百畝、その半ばに黍をうゆ。家豪富にして飲をもって累となさざるなり。ある蛮僧これにあいて、その身に異疾あるという。劉答えて言う、「なし」と。僧曰く、「君かつて飲して酔わざるや否や」と。曰く、「これあり」と。曰く、「これは酒虫なり」と。劉愕然として、すなわち医療を求む。曰く、「やすきのみ」と。「いかなる薬をもとむるや」と。ともにすべからくもちいずと言う。ただ日中俯臥せしめて手足を繋ぎ、こうべをさること半尺ばかり、良醞一器を置くのみ。時をうつして燥に渇して、飲を思って極まるとなす。酒の香鼻に入りさんか上ってしきりなれど飲むをえずして苦しむ。たちまち咽中むずかゆきを覚え、あっと物出づるあって直ちに酒中におつ。縛しめを解きてこれを視るに、赤き肉の長さ三寸ばかり蠕動して游魚のごとく口眼ことごとく備わる。劉驚きて謝す。金をもって酬いんとすれど受けず、ただその虫を乞う。問う、「まさに何に用いるぞ」と。曰く、「これ酒の精、水を貯めたる甕の中に虫を入れてこれを攪せば、すなわち佳醸となる」と。劉これを試さしむれば果して然り。劉これより酒をにくむこと仇のごとし。ようよう体痩せきて家もまた日ごとに貧にして、後に飲食を給するもあたわざるに至る。

 異史氏曰く、日に一石を尽くすもその富を損ずるなけれども、一斗を飲せずともただもって貧をますのみ。あに飲啄にもとより数あるべけんや。あるいは言う、「虫はこれ劉の福にして劉の病にあらず。僧はこれを愚としてもってその術をなす」と。然るか否か。

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 屋上屋を重ねて解釈するまでもないだろう。田舎の金持ちの地主が酒好きで日々牛飲して暮らしていたところ、旅のラマ僧が「あんた悪病にとりつかれているよ」と脅かし治療と称して腹中の酒の精を奪い、酒が嫌いとなった田舎者は破綻してしまったという話である。

 酒を飲まなくなったことで家が衰微したとすれば、その因果関係はなんだろう? 勤勉が美徳だとすればサカサマである。ひとつは愚かな旦那は酒でもくらって遊んでいてくれたほうがよかったのに、シラフになって下手に家政に口出して失敗したのだろうか。

 いまひとつは「変えざるをえない場合でなければ物事をいじってはならない」という世の中の“不動の真理”である。プチ整形とかで顔をいじりはじめたら際限なくなる。ついには化け物になってしまったというのも十分に聊斎志異的でおもしろい。

 『聊斎志異』は445編の“異”話を編んだ清代の蒲松齢(ほしょうれい・1640~1715)の著。異とは幽霊で
あり、狐などの異類、夢などの現実から遊離した不思議である。神霊・牛鬼・蛇神・魑魅魍魎(ちみもうりょ
う)の幽明境を異にする世界のロマンを記す。
 新王朝の成立と蒲松齢はほぼ時を同じくする。異民族の征服王朝への出仕を思い立ったけれども、と
うとう科挙の試験に及第することはなかった、その鬱屈した思いがまた異話に沈潜していく動機ともなった
のではあるまいか。
 このあたりの心理や王朝交代の動乱期ならではの素材として「顔氏」を読めばおもしろい。もとより『聊斎
志異』はすべてが蒲松齢の創作であるとは考えられない。各地の説話や民話を蒐集して編んだものと序
言に著者が述べたとおりである。すべてがある意味の実話なのである。
 「顔氏」の中で妻である顔氏も夫である某も孤児でありつつ、唐突に某の父母が帝から鴻恩を賜ったと
書かれているのは物語と事実との未整理の結果であろう。女性の進士や御史が実際いたのであろうし、
その夫は兄とでもいっていたのかも知れない。世の中の好む「男女逆転物語」がここにもあり、それをまた
素材にして新たな物語を作り出してもおもしろそうである。 
 「画壁」は単純なストーリーであるが、思念が妄想に陥りこんでいくと、たちまち夢と現実が融合してわか
ちがたくなることの可能性を示している。ここではすぐに夢からさめるのであるが、幸か不幸かさめない夢
に入りこめばもう異話ではなく真実そのものになることも了解できる。
 『論語』では子不語怪力乱神(述而)---子は怪力乱神(かいりょくらんしん)を語らず—とある。ふつう論
語は「孔子様がこう述べられた」の形式だから、〇〇をしゃべらなかったは珍しい。怪異(尋常ならざるこ
と)、勇力(力強きこと)、悖乱(道理にもとること)、鬼神(神妙不思議なること)。いずれも人知を超え、理
性で説明できないものである。この章句の解釈はだから、「先生は人知で理解できる、きわめて理性的な
ことだけ話された」ということになる。

 孔子は語らなかった(=人に説くことはなかった)けれども、そうしたもの自体の存在を否定したわけで

はない。(古代の闇の中に蠢いていたに違いないのだ!) であるならば、私たちが怪力乱神を語るおも

しろさに耽って何の問題があろうか。

 

【原典】竹田晃・黒田真美子編『中国古典小説選9〈清代Ⅰ〉聊斎志異(1)』(明治書院 2009)

June 26

聊斎志異 「画壁」

 

【原典】竹田晃・黒田真美子編『中国古典小説選9〈清代Ⅰ〉聊斎志異(1)』(明治書院 2009)

*白文及び読み下しは原典による。釈は拙、解題は次回。

 

画壁

江西孟竜潭、与朱孝廉客都中。偶渉一蘭若、殿宇禅舎、倶不甚弘敞。惟一老僧挂搭其中。見客入、粛衣出迓、導与随喜。殿中塑誌公像、両壁図絵精妙、人物如生。東壁画散花天女、内一垂髫者、拈花微笑、桜唇欲動、眼波将流。朱注目久、不覚神揺意奪、恍然凝想。身忽飄飄、如駕雲霧、已到壁上。

見殿閣重重、非復人世。一老僧説法座上、偏袒繞視者甚衆。朱亦雑立其中。少間、似有人暗牽其裾。回顧、則垂髫児、囅然竟去。履即従之。過曲欄、入一小舎、朱次且不敢前。女回首、挙手中花、遥遥作招状、乃趨之。舎内寂無人。遽擁之、亦不甚拒、遂与狎好。既而閉戸去、嘱勿咳。夜乃復至、如此二日、女伴覚之、共捜得生。戯謂女曰、腹内小郎已許大、尚髪蓬蓬学処子耶。共捧簪珥、促令上鬟。女含羞不語。一女曰、妹妹姉姉、吾等勿久住、恐人不歓。群笑而去。生視女、髻雲高簇、鬟鳳低垂、比垂髫時尤艶絶也。四顧無人、漸入猥褻、蘭麝熏心。

楽方未艾、忽聞吉莫靴鏗鏗甚厲、縲鎖鏘然。旋有紛囂騰弁之声。女驚起、与生窃窺、則見一金甲使者黒面如漆、綰鎖挈槌、衆女環繞之。使者曰、全未。答言、已全。使者曰、如有蔵匿下界人、即共出首、勿胎伊戚。又同声言、無。使者反身鶚顧、似将捜匿。女大懼、面如死灰。張皇謂朱曰、可急匿榻下。乃啓壁上小扉、猝遁去。朱伏、不敢少息。俄聞靴声至房内、復出。未幾、煩喧漸遠、心稍安。然戸外輒有往来語論者。朱跼蹐既久、覚耳際蝉鳴、目中火出、景状殆不可忍。惟静聴以待女帰。竟不復憶、身之何自来也。

時孟竜潭在殿中、転瞬不見朱、疑以問僧。僧笑曰、往聴説法去矣。問、何処。曰、不遠。少時、以指弾壁而呼曰、朱檀越何久遊不帰。旋見壁間画有朱像。傾耳佇立、若有聴察。僧又呼曰、遊侶久待矣。遂飄忽自壁而下、灰心木立、目瞪足耎。孟大駭、従容問之。蓋方伏榻下、聞叩声如雷、故出房窺聴也。共視拈花人、螺髻翹然、不復垂髫矣。朱驚拝老僧、而問其故。僧笑曰、幻由人生。貧道何能解。朱気結而不揚。孟心駭而無主。即起、歴階而出。

異史氏曰、幻由人生、此言類有道者。人有淫心、是生褻境。人有褻心、是生怖境。菩薩点化愚蒙、千幻並作、皆人心所自動耳。老婆心切、惜不聞其言下大悟、披髪入山也。

【読み下し】

こうせいのもうりゅうたん、しゅこうれんととちゅうにかくたり。たまたまいちらんじゃにわたり、でんうぜんしゃ、ともにはなはだしくこうしょうならず。ただいちろうそうそのうちにけいとうするのみ。かくのいるをみて、いをととのえていでむかえ、みちびきてともにずいきせんとす。でんちゅうにしこうのぞうをそし、りょうへきのずかいはせいみょうにして、じんぶつはいくるがごとし。とうへきにはさんげてんにょをえがき、うちのいちすいちょうなるもの、ねんげみしょうし、おうしんんはうごかんとほっして、がんぱはまさにながれんとす。しゅめをそそぐことひさしく、おぼえずしんゆれていうばわれ、こうぜんとしてぎょうそうす。みはたちまちひょうひょうとして、うんむにがするがごとくして、すでにへきじょうにいたる。

でんかくのちょうちょうたるをみれば、またじんせいにあらず。いちろうそうほうざじょうにせっぽうし、へんたんぎょうしするものはなはだおおし。しゅもまたそのなかにまじりたつ。しょうかん、ひとのあんにそのすそをひくがあるごとし。かいこすれば、すなわちすいちょうのじ、てんぜんとしてついにさる。ふみてすなわちこれにしたがう。きょくらんをすぎ、いちしょうしゃにいれども、しゅはじしょしてあえてすすまず。むすめはこうべをめぐらして、しゅちゅうのはなをあげて、ようようとしてまねくのじょうをなし、すなわちはしりゆく。しゅないせきとしてひとなし。にわかにこれをようするも、またはなはだしくこばまざれば、ついにともにこうこうす。

すでにしてとをとじてさらんとするに、せきすることなかれとしょくす。よるすなわちまたいたり、かくのごとくしてふつか、じょはんこれをさとり、ともにさがしてせいをえたり。たわむれにむすめにいいていわく、ふくないのしょうろうはすでにかくもだいにして、なおかみはほうほうとしてしょしにまなぶや、と。

ともにしんじをささげ、うながしてかんをあげしむ。むすめはがんしゅうしてかたらず。いちじょいわく、めいめいじぇじぇ、われらひさしくはとどまることなかれ、ひとのよろこばざるをおそる、と。ぐんわらいてさる。せいはむすめをみれば、けいうんこうぞく、かんぽうひくくたれ、すいちょうのときにくらぶるももっともえんぜつなり。しこすればひとなく、ようやくわいせつにいり、らんじゃこころをくんず。

たのしみまさにいまだつきざるに、たちまちきつばくかのこうこうたることはなはだしく、るいさしょうぜんたるをきく。ついでふんごうとうべんのこえあり。むすめおどろきたち、せいとひそかにうかがえば、すなわちいちきんこうのししゃこくめんうるしのごとくして、くさりをすべつちをさぐるをみ、しゅうじょこれをかんじょうす。ししゃいわく、すべていまだしか、と。こたえていう、すでにまったし、と。ししゃいわく、もしげかいのひとをぞうとくするあらば、すなわちともにこうべをいだせ、このうれいをのこすなかれ、と。

またこえをともにしていう、なし、と。ししゃははんしんがくこし、まさにとくをさがさんとするがごとし。むすめはおおいにおそれて、おもてはしかいのごとし。ちょうこうしてしゅにいいていわく、いそぎとうかにかくるべし、と。すなわちへきじょうのしょうひをひらき、にわかにのがれさる。しゅはふくして、あえてしょうそくせず。にわかにかせいのぼうないにいたるをきき、またいづ。いまだいくばくならずして、はんけんようやくとおく、こころやややすんず。しかるにこがいにすなわちおうらいごろんするものあり。しゅはきょくせきすることすでにひさしく、じさいにぜみなき、もくちゅうにひいづるをおぼえ、けいじょうほとんどしのぶべからず。たたせいちょうしてもってむすめのかえるをまつのみ。ついにまたみのいずこよりきたるかをおもわざるなり

ときにもうりゅうたんはでんちゅうにあり。てんしゅんにしてしゅをみず、うたがいもってそうにとう。そうわらいていわく、ゆきてせっぽうをききにゆけり、と。とう、いずこにか、と。いわく、とおからず、と。しょうじ、ゆびをもってかべをはじきよびていわく、しゅだんおつなんぞひさしくあそびてかえらざる、と。

すみやかにへきかんのがにしゅぞうあるをみる。みみをかたむけちょりつして、ちょうさつあるがごとし。そうまたよびていわく、ゆうりょひさしくまてりと。ついにひょうこつとしてかべよりしてくだり、かいしんぼくりつして、めはりあしよわし。もうはおおいにおどろき、しょうようとしてこれにとう。けだしとうかにふくし、たたくこえのかみなりのごときをきき、ゆえにぼうをいでてうかがいきくなり。ともにねんげのひとをみれば、らけいぎょうぜん、またすいちょうならざらん。しゅはおどろきてろうそうにはいして、そのゆえをとう。そうわらいていわく、まぼろしはひとによりてしょうず。ひんどうなんぞよくかいせん。

しゅはきをむすばれてあげず。もうはこころおどろきてしゅなし。すなわちたちて、きざはしをへていでり。

いししいわく、まぼろしはひとによりてしょうず、このげんはみちあるものにるいす。ひとにいんしんあらば、これせつきょうにしょうず。ひとにせつしんあらば、これふきょうをしょうず。ぼさつはぐもうをてんかするに、せんげんならびておこるは、みなじんしんのおのずからうごくところなるのみ。ろうばしんせつなるも、そのげんかたいごし、ひはつしてにゅうざんするをきかざるをおしむなり、と。

【釈】

 江西の孟竜潭と朱孝廉が遊客となって都にいたときの話である。たまたまある寺院に足を踏み入れたところ、講堂や金堂などの伽藍は、さほど広壮といえるものではなく、ただ一人の老僧がそこに住まっているのみである。客人が入ってきたのを見て、衣をととのえて出迎え、読経勤行の場に案内した。殿中には梁の高僧の像が置かれ、両側の壁図は見事であって、人物は生きているかのようである。東の壁には散花する天女たちが描かれ、中の一人のおさげの娘は、花を摘みつつほほえんでいるが、桜色の唇は開かんとし、動く眼はいきいきと誘わんとしている。朱は長い間これをみつめていたが、不覚にも精神が動揺してこころを奪われ、ぼぅとなって夢のなかに彷徨ってしまった。たちまちにからだが浮いて風に飛ばされ、雲か霧に乗っているようで、気がつけば壁の中にはいっていたのだった。

甍重なる御殿の結構は、またこの世のものとは思われない。一人の老僧が壇上から説法をしているのを、片肌脱ぎの多くの人々が眼を凝らして聞き入っている。朱もそのなかに混じって説法を聞く。するとすぐ、誰かに服の裾を牽かれている気配がする。ふりむくと、あのおさげの娘。笑いながら向こうに逃げるので。そのあとについていく。欄干の角を曲がって、ある小さな部屋に入ったが、さすがにその中まではふみこめない。娘は振り向いて、手にもった花を揺らし、おいでおいでと招くのだった。走って入った。部屋には誰もいない。きゅっと抱きしめた、でも拒否はしない、かくてとうとう情を交わすにいたったのだった。

事が済んで戻る戸を閉じながら娘は、おとなしく咳もしないでいてね、と頼むのである。夜になってまた娘がやってきた、こうして二日がたった。娘の仲間たちがこれを感づいて、みんなで捜し回り朱のいる部屋を見つけた。彼女たちがからかって、「おなかの中の赤ちゃんはどんどん大きくなっているのに、まだ格好はおさげ髪の女の子のままのおさげでいいの?」と言う。

わいわいとかんざしや耳飾りを持ってきて、みずらをあげ大人のまげを結いはじめたが、娘は恥ずかしがって黙ってなすがままである。ある若い子が、「ねぇお姉さまたち、私たちずいぶんお邪魔したみたいよ、嫌がられる前に退散しましょう」と言い、みんなでドッと笑って部屋を出て行った。朱が娘を見ると、もとどりは雲のようにやわらかく高く結い上げられて、鳳凰の髪飾りが揺れて頬に影し、おさげの頃とは比べものにならぬほどなまめかしい。あたりを見回せば人影はない、二人の気が高まって淫らとなって濡れれば、蘭麝の香りはムンムンとむせるのであった。

快楽に沈沈と耽りきっていたところ、突如コツコツと硬い靴の音が床を激しく踏み、ジャラジャラと鎖が引きずられ、ガンガンした大声と騒々しさが湧き上がった。娘はびっくり飛び起きて、二人で外を覗くと、金銅の鎧を身に纏った漆のように真っ黒い顔をした使者が、鎖と槌を手にし、それを多くの女たちがとりかこんで集まっている。使者はいう、「これですべてか」と。皆は答える、「すべてです」と。使者は、「もし下界の人間を隠していたら、すぐそろって出頭しろ、言わないとあとが怖いぞ」と呼ばわる。

皆は揃って、「いません」と答える。使者は身をそらして鷹のように鋭い眼で睨みまわし、隠している者を捜さんとする。それを見て娘は怖気づき、顔は死人のようとなった。慌てふためいて朱に、「急いでベッドの下に隠れて!」と告げた。たちまち壁上方の小さな扉を開けて、逃れ去った。朱は伏せて息をころした。急に靴音が室内に入ってきて、また出ていった。それほどの時間もたたないうちに、騒ぎがようやく収まってて、やや心が落ち着いてきた。だが外ではなお行き交う人があり、なにごとか論ずる人がいる。ベッドの下で背を丸めてかがみこんで長くなり、耳鳴りに目の火照りも昂進して、もうどうしようもなくなってきた。それでもできることはただ娘が帰ってくることを待つことしかない。とうとう自分が、どうしてここにいるのかも分からなくなってきた。

さて孟竜潭は寺の中にいて、あっという間もなく朱がいなくなったので、不思議に思って僧に問うた。僧は笑って、「説法を聞きに行かれたのでしょう」という。「どこに?」と尋ねると、「遠くはないところに」との答え。しばらくして、指で壁をはじいて、「朱さん、遊びが長いようでなかなか帰れませんね」と呼びかけた。

すると壁の画の中に朱の姿が現れてきて。耳を傾けてたたずんで、なにかを聞こうとして思いあぐねている。僧がまた、「お友だちがお待ちですよ」と呼ぶと、壁の中から呆然となった朱がおりてきた。燃え尽きた木のように心失い、目はすわって足は萎えたままである。孟は大いに驚いて、それでも平静ぶってどうしたかを朱に尋ねた。ベッドの下に伏せ忍んでいたら、雷のような大音に叩かれてギョッとし、部屋を出て外をうかがって聞き耳を立てていたという。そこで二人で壁画の花摘む娘を見てみると、高々としたマゲを結って、もはやおさげ姿ではない。朱は驚いて老僧を拝し、どういうわけなのかを恭しく訊ねた。僧は笑いつつ、「幻とは人がつくりだすもの。私ごときがなんでわかりましょう」と答えた。

がっかりした朱は気がふさぎ消沈し、孟は心驚いてぼんやりしてしまった。ま、いつまでもそうはしてられないので、立ち上がって階段を下りて外に出て行ったのではあるが…。

(正史ではない)異史を綴る私はかく思う。幻とは人がつくりだすもの、この言葉は悟った人の教えである。人に淫らな心があれば、猥褻な世界が展開するだろう。人に猥褻な心があれば、恐ろしい世界に引きずり込まれるのだろう。菩薩は衆生を悔い改めさせ新しくさせるため、千変万化の幻を作り出されるのだろうが、これらは皆人の心が動揺した結果でしかない。老僧からこれほどの並々ならぬ教えがあったとしても、即座に大悟して、髪をおろして出家し山に入ったとは聞かない。まことに惜しいとも、また彼らが愚蒙であったとも思えるのである。

 

June 25

聊斎志異 「顔氏」

 

【原典】竹田晃・黒田真美子編『中国古典小説選9〈清代Ⅰ〉聊斎志異(1)』(明治書院 2009)

*白文及び読み下しは原典による。釈は拙釈。解説は後日。

顔氏

順天某生、家貧、値歳飢、従父之洛。性鈍、年十七、裁能成幅。而丰儀秀美、能雅謔、善尺牘。見者不知其中之無有也。無何、父母継歿、孑然一身、授童蒙於洛汭。時村中顔氏有孤女、名士裔也。少恵、父在時、嘗教之読、一過輒記不忘。十数歳、学父吟詠。父曰、我家有女学士。惜不弁耳。鍾愛之、期択貴壻。父卒、母執此志、三年不遂而母又卒。或勧適佳士、女然之而未就也。適隣婦踰垣来、就与攀談。以字紙裹繍線、女啓視、則某手翰、寄隣生者。反復之而好焉。隣婦窺其意、私語曰、此翩翩一美少年、孤与卿等、年相若也。倘能垂意、妾嘱渠儂胹合之。女脈脈不語。婦帰、以意授夫。隣生故与生善。告之、大悦。有母遺金鴉鐶、託委致焉。刻日成礼、魚水甚懽。

及睹生文、笑曰、文与卿似是両人。如此、何日可成。朝夕勧生研読、厳如師友。斂昏、先挑燭拠案自哦、為丈夫率、聴漏三下、乃已。如是年余、生制芸頗通。而再試再黜。身名蹇落、饔飧不給、撫情寂漠、嗷嗷悲泣。女訶之曰、君非丈夫、負此弁耳。使我易髻而冠、青紫直芥視之。生方懊喪、聞妻言、睒睗而怒曰、閨中人、身不到場屋、便以功名富貴似汝廚下汲水炊白粥。若冠加於頂、恐亦猶人耳。女笑曰、君勿怒。俟試期、妾請易装相代。倘落拓如君、当不敢復藐天下士矣。生亦笑曰、卿自不知蘗苦、真宜使請嘗試之。但恐綻露、為郷隣笑耳。女曰、妾非戯語。君嘗言燕故廬。請男装従君帰、偽為弟。君以襁褓出、誰得弁其非。生従之。女人房、巾服而出曰、視妾可作男児否。生視之、儼然一顧影少年也。生喜、徧辞里社。交好者薄有餽遺、買一羸蹇、御妻而帰。

生叔兄尚在、見両弟如冠玉、甚喜、晨夕卹顧之。又見宵旰攻苦、倍益愛敬。僱一剪髪雛奴、為供給使。暮後、輒遣去之。郷中弔慶、兄自出周旋、弟惟下帷読。居半年、罕有睹其面者。客或請見、兄輒代辞。読其文、(目矞)然駭異。或排闥而迫之、一揖便亡去。客睹丰采、又共傾慕。由此名大譟、世家争願贅焉。叔兄商之、惟囅然笑。再強之、則言、矢志青雲、不及第、不婚也。会学使案臨、両人並出。兄又落、弟以冠軍応試、中順天第四.明年成進士、授桐城令、有吏治。尋遷河南道掌印御史、富埓王侯。因託疾乞骸骨、賜帰田里。賓客塡門、迄謝不納。又自諸生以友顕貴、並不言娶、人無不怪之者。帰後、漸置婢。或疑其私、嫂察之、殊無苟且。

無何、明鼎革、天下大乱。乃謂嫂曰、実相告、我少郎婦也。以男子闒茸、不能自立、負気自為之。深恐播揚、致天子召問、貽笑海内耳。嫂不信。脱靴而示之足、殆愕。視靴中、則敗絮満焉。於是使生承其銜、仍閉門而雌伏矣。而生平不孕、遂出貲購妾。謂生曰、凡人置身通顕、則買姫媵以自奉。我宦迹十年、猶一身耳。君何福沢、坐享佳麗。生曰、面首三十人、請卿自置耳。相伝為笑。是時生父母、屡受覃恩矣。搢紳拝仕、尊生以侍御礼。生羞襲閨銜、惟以諸生自安、終身嘗輿蓋云。

異史氏曰、翁姑受封於新婦、可謂奇矣。然侍御而夫人也者、何時無之。但夫人而待御者、少耳。天下冠儒冠、称丈夫者、皆愧死矣。

【読み下し】

じゅんてんのぼうせいは、いえまずしく、さいきにあい、ちちにしたがいてらくにゆく。せいはどん、としじゅうしちにして、わずかによくふくをなす。しかれどもぼうぎしゅうびにして、がぎゃくをよくし、せきとくをよくす。あうものはそのうちのあるなきをしらざるなり。いくばくもなく、ふぼついでぼっし、けつぜんとしていっしんたりて、どうもうにらくぜいにさずく。ときにそんちゅうのがんしにこじょありて、めいしのすえなり。しょうけいにして、ちちのありしとき、つねにこれによむをおしえ、いっかすればすなわちきしてわすれず。じゅうすうさいにして、ちちにまなびてぎんえいす。ちちいわく、わがやにじょがくしあり。べんぜざるをおしむのみ、と。これをしょうあいし、きせいをえらぶをきす。ちちしゅっし、ははこのこころざしをとるも、さんねんとげずしてははまたしゅっす。あるひとかしにゆくをすすめ、むすめはこれをしかりとすれどもいまだつかざるなり。たまたまりんぷかきをこえてきたり、つきてともにはんだんす。じしをもってしゅうせんんをつつみ、むすめひらきみれば、すなわちぼうのしゅかんにして、りんせいによするものなり。これをはんぷくしてこのめり。りんぷはそのいをうかがい、ひそかにかたりていわく、これはへんぺんたるいちびしょうねんにして、こなるはけいとひとしく、としあいしく。もしよくいにちかければ、しょうはきょのうにしょくしてこれをじごうせしむ、と。むすめみゃくみゃくとしてかたらず。ふかえり、いをもっておっとにさずく。りんせいはもとよりせいとよし。これをつぐればおおいによろこぶ。ははののこせしきんあかんありて、たくいしてこれをいたせしむ。ひをこくしてれいをなし、ぎょすいはなはだよろこぶ。

せいのぶんをみるにおよびて、わらいていわく、ぶんとけいとはこれりょうにんのごとし。かくのごとくんば、いずれのひにかなるべけんや、と。ちょうせきせいにけんどくをすすめ、げんたることしゆうのごとし。れんこんには、まずしょくをかかげあんによりてみずからうたい、じょうぶのためにひきい、ろうにみたびくだるをききて、すなわちやむ。かくのごとくしてねんよ、せいはせいげいすこぶるつうず。しかれどもふたたびししてふたたびしりぞけらる。しんめいけんらくし、ようそんきゅうせず、じょうをぶしてせきばくとして、ごうごうとひきゅうす。つまはこれをかしていわく、きみはじょうぶにあらざらん、このべんにそむくのみ。われをしてまげをかえてかんせしむれば、せいしはただこれをかいしするのみ、と。せいはまさにおうそうするも、つまのげんをきき、せんせきしていかりていわく、けいちゅうのひと、みはじょうおくにいたらざれば、すなわちこうみょうふうきをもってなんじのちゅうかにみずをくみはくしゅくをたくがごとくす。もしかんむりいただきにくわうれば、おそらくまたなおひとのごときなるのみ、と。おんなわらいていわく、きみいかるなかれ。しきをまちて、しょうはそうをかえてあいかわるをこわん。もしらくたくすることきみのごとくんば、まさにあえてまたてんかのしをかろんぜざるべし、と。せいもまたわらいていわく、けいはみずからはくくをしらざれば、まことによろしくこれをしょうしするをこわしむべし。ただたんろして、きょうりんのわらいとなるをおそるるのみ、と。おんないわく、しょうはざごにあらず。きみかつてえんにころありという。だんそうしてきみにしたがいてかえり、いつわりてていとなるをこう。きみはきょうほをもってでて、たれかそのひをべんずるをえんや、と。せいはこれにしたがう。おんなぼうにいりて、きんふくしていでていわく、しょうをみてだんじとなすべきやいなや、と。せいこれをみれば、げんぜんたるいっこえいのしょうねんなり。せいよろこびて、あまねくりしゃにじす。こうこうしゃいささかきいありて、いちるいけんをかい、つまをぎょしてかえる。

せいのしゅくけいなおありて、りょうていのかんぎょくのごときをみて、はなはだよろこび、しんせきこれをじゅつこす。またしょうかんこうくするをみて、いよいよますますあいけいす。いちせんぱつのすうどをやとい、ためにきょうきゅうしてつかわしむ。ぼご、すなわちこれをさらしむ。きょうちゅうのちょうけいは、けいみずからいでてしゅうせんし、ていはただいにくだりてよむのみ。おることはんとし、まれにそのおもてをみるものあり。かくあるいはあうをこえば、けいすなわちかわりてじす。そのぶんをよみ、きつぜんとしてがいいす。あるいはたつをはいしてこれにせまれば、いちゆうしてすなわちにげさる。かくはふうさいをみて、またともにけいぼす。これよりなおおいにさわがれ、せいかあらそいてせいをねがえり。しゅくけいこれをしょうすれば、ただてんぜんとしてわらうのみ。ふたたびこれをしいればすなわちいう、ちかいてせいうんをこころざし、だいにおよばざれば、こんせざるなり、と。たまたまがくしあんりんし、りょうにんならびていづ。けいまたおつ。ていはかんぐんをもってしにおうじ、じゅんてんだいしにあたる。みょうねんしにしとなり、とうじょうれいをさずけられ、りちあり。ついでかなんどうしょういんぎょしにせんせられて、とみはおうこうにひとし。よりてやまいにたくしてがいこつをこい、でんりにかえるをたまわる。ひんかくもんをうずめ、しゃしていれざるにおよぶ。またしょせいよりもってけんきにおよぶまで、ならべてめとるをいわざれば、ひとにこれをあやしまざるものなし。かえりてのち、ようやくひをおく。あるいはそのしをうたがい、そうはこれをさっするも、ことにこうしょなし。

いくばくもなく、みんのかなえあらたまり、てんかおおいにみだる。すなわちそうにいいていわく、まことにあいつぐるに、われはしょうろうのふなり、と。だんしのとうじょうなるをもって、じるつするあたわざれば、きをおいてみずからこれをなす。ふかくはようせられ、てんしのしょうもんをいたし、わらいをかいだいにおくるをおそるるのみ、と。そうはしんぜず。くつをぬぎてこれにあしをしめして、はじめておどろく。かちゅうをみれば、すなわちはいじょみつ。ここにおいてせいをしてそのがんをうけしめ、よりてもんをしめてしふくす。しかるにせいへいはらまずして、ついにしをいだしてしょうをあがなう。せいにいいていわく、およそひとはみをつうけんにおけば、すなわちきようをかいてもってみずからほうぜしむ。われはかんせきじゅうねんなるに、なおみはいっしんなるのみ。きみになんのふくたくありて、ざしてかれいをうくるや、と。せいいわく、めんしゅさんじゅうにん、けいみずからおくをこうのみ、と。あいつたえてわらいとなる。このときせいのふぼ、しばしばたんおんをうけり。しんしんはいしゆき、せいをとうとびてじぎょのれいをもってす。せいはけいのがんをおそうをはじ、ただしょせいをもってみずからやすんじ、しゅうしんいまだかつてよがいせずという。

いししいわく、おうこのほうをしんぷにうくるは、きというべし。しかるにじぎょにしてふじんなるものは、いずれのときにかこれなけんや。ただふじんにしてじぎょなるものは、すくなきのみ。てんかのじゅかんをかんして、じょうぶとしょうするものは、みなはじてしせん、と。

【釈】

順天の某という書生は家貧しく、折からの飢饉にあって父とともに洛陽に移った。能力は性来鈍く、年のころ十七になってやっと文章が書ける程度である。それでも風采はスマートでユーモアも語り、手紙だってきちんと書けた。外見だけでは中身があるないはわかったものではない。

ほどなく両親があいついで卒去し身は独りぼっちになった。やむなく近所の子らに手習いを教えて、洛水が黄河に合わさるあたりで暮らしはじめた。

このころ同じ村に名士の流れを引く顔家の娘もまた孤児となっていた。幼きときから天稟があって、かつて父が健在のころはひとたび読み書きを教えれば即座に諒察して忘れることがなかった。十いくつかで父に学んで詩を賦し朗詠した。父はいつも、

「我が家には女学士がいる。ただ残念なのは、冠をつけられない女であることだ」

と語っていたものである。この子を深く愛し、優秀な婿どのを選びたいものだと心に期していた。父亡くなり母がその志を継いだが、果たさないまま三年経って母もまたはかなくなった。知り合いから佳き人を紹介されたので、娘も結婚したほうがいいだろうと思ったのだが、まだ正式に約束したというわけではなかった。

たまたま隣家の嫁と垣根ごしにおしゃべりに興じていた際、見せてもらった刺繍の糸が包まれた紙の裏には字が書かれていた。娘が開いて見たら、文字も美しく文章もそれなりである。手紙は某が書いたもので、書生仲間の隣の夫にあてたものだった。顔家の娘は何度も繰り返し読んで好感を持った。隣家の嫁はそれを察して、こっそりささやいた。

「この人は高身長の美少年でね、あなたと同じように独りぼっちなの。お互いの年もぴったりだと思うわ。あなたがよければ、私が夫に頼んでとりもってもらうけど、どう?」

娘は大きく心を動かされたようで黙りこんだ。家に帰ってから嫁はそのことを夫に告げた。隣の書生はもとから某と仲がよかったので、早速それを教えてやったら、某は有頂天となった。

母が遺してくれた金鴉の指輪だして、隣の書生に託して娘に贈って結婚の意志を告げた。日を決めて婚姻の礼を行い、二人は魚と水のように睦まじく暮らし始めた。

妻は某の文章を読んで笑ってしまった。

「文章とあなたはまったく別人なのね。こんなんじゃ、いつになったら進士になれるのかしら?」

朝に夕に某につきっきりで勉強を指導した。あたかも師であり兄弟子あるかのように厳しく! 日が暮れると灯りをともし、机に向って座しまず自らが朗唱して某に復唱させ、深夜三更に及んでようやく止むのである。

このようにして年余、夫も八股文にどうにか習熟するようになった。であるのに、二度の試験があって二度とも落第してしまった。身も名も落ちぶれはて、食にも窮してきて、撫然として気持ちは絶望的となって、ギャーギャー泣き悲しむのである。妻は夫を叱りつけた。

「あなたは男じゃなかったの。この冠はなんなの? 私が髪形を変え冠をつけ(て男になっ)たらアッという間に高位高官一直線よ!」

悲しみ悩んで心神喪失しているかのようだった夫は、これを聞いて目を光らせて怒った。

「ベッドでゴロゴロしているだけのやつがなにを言うんだ! 試験場に行くこともないから、刻苦勉励の果ての功名富貴であっても、厨房で水を汲み白粥を炊くことと同じようにしか思えないのだ。頭に冠をかぶってみろ、どうせ俺と同じことしかできやしないさ」

妻はおだやかにほほ笑んだ。

「あなた、怒っちゃだめよ。じゃ今度の試験、私が変装して身代わりになるわ。もしあなたみたいに落ちたら、もう天下の書生さんをないがしろにはしませんことよ」

夫もまた笑って言った。

「君はお嬢さん育ちだから苦労を知らないんだよ。本当に科挙の試験を受けてみたほうがいい。だけど事が露顕したとき、近所の笑い者になるのが心配だな」

妻は言う。

「冗談をいってるんじゃないわ。前にあなた燕(北京)にそもそもの家があるといいましたね。そこに帰りましょ、私は男装してあなたの弟となって帰るのよ。あなたは赤ちゃんの時に出て以来だから、ウソだって誰がわかるものですか」

夫もそうすることにした。妻は部屋に戻って男装の頭巾と衣服に着替えて現れた。

「見て、私男になったと思わない?」

夫はそこに誇り高い自信にあふれた青年を見たのである。

大喜びで近在に旅立ちの挨拶をしてまわり、いくばくかの餞別をもって一頭のロバを購い、妻を連れて故郷に帰っていった。

某の従兄がまだ健在であった。眉目秀麗の二人の従弟をみて喜んで歓迎し、朝に夕によく面倒を看てくれた。また早朝から深更にいたる勉励の姿をみて、ますます大切にまた敬ってくれたのである。おかっぱ髪のひとりの少女を雇って彼らの世話をさせた。少女は日が暮れたらすぐに家に返したのである。

村での慶弔については兄が一人出席してことにあたった。弟はひたすら部屋にこもって勉学に励む。こうして半年、弟の顔を見たものは殆どいない。面会を望む客があっても兄が代わって出て謝絶した。その文章を読んだ人はすばらしさに驚き瞠目した。無理にくぐり戸を押し開けてきた者もいたが、ちょいと会釈してすぐ立ち去ってしまう。ちらっと風貌を見ることのできた人は、なおいっそう憧れの気持ちを募らせた。そんなこんなで大評判となって、富貴名門があらそってわが婿にと願ってきた。従兄がその話をもってきても、ただおもしろがって笑うだけである。もう一押しすると、こう答えた。

「青雲の志があるのですから、合格するまで結婚はしない決意なのです」

たまたま学使が巡回してきて院試が行われ、この兄弟もともに受験した。兄はまた落ち、弟は首席となって郷試に進み順天府第四席を占め、翌年進士となった。桐城県の令に任じられ、よく県治を行った。ついで河南道の掌印御史に昇進し、もつ富は王侯にひとしくなった。そこで病気を理由として辞職を願い出て許され、錦衣故郷に帰ることをえたのである。

名士の客は門にあふれ、お断りしなければならないほどであった。人々は、彼が書生のころから立身出世した今となるまで妻を娶ることを言い出さなかったので、おかしいと思わない者はいなかった。帰郷してやっと下女を置き世間はその裏を疑ったのだが、従兄の夫人が様子を探れどもその場しのぎの事実はない。

そうこうしている間に明の天下が覆り、全国が騒乱状態となった。そこで弟であった某の妻顔氏はようやく従兄の妻に打ち明けたのだった。

「本当のことを申し上げますと、私はご主人の従弟である某の妻なのです。夫が愚かで鈍であり生活のめどが立ちませんでしたので、私が気負ってかくやってきたのです。それは恐ろしうございました、広く知られれるようになったら皇帝陛下の詰問を受け、天下の笑い者になるかもしれなかったのですから」

従兄の妻は信じなかった。そこで靴を脱いで足を見せたところ、やっとびっくりしたのである。そこには纏足の小さな足があり、靴の中にはぎっしりとボロ綿がつめられてあった。

こうしてもっていた官位を夫に移し、妻は門を閉じてひきこもった。しかし妻は孕むことがなく、やむなく金を出して妾を雇ったのである。妻は夫に言った。

「人であれば誰だって、身を貴顕に置けばすぐに美人を求めて妾奉公をさせるそうじゃありませんか。私は官途にあること十年、まだ一人身のままよ。あなたはどういう福の神がついているのかしら? 努力もせず座したままで美人に恵まれているのですもの」

夫は言った。

「君だってイケメンの若い男を三十人囲ったらいいじゃないか」

この話世間に漏れて物笑いの種となった。

このころ某の両親(従兄夫妻の誤りか?)はしばしば帝恩をかたじけなくし、名士たちから祝福の挨拶を受けた。彼らは某に対してもまた御史としての礼をとったのである。さすがに夫は妻の官爵を継いだことを羞じて書生身分のままで暮らし、生涯輿も大傘も用いなかったという。

異史氏たる私はかく思う。

舅や姑が嫁のおかげで封爵をうるというのは奇妙である。御史であって女みたいな者はいつの世だっていないことはあるまい。しかしながら女の身で御史になった者は殆どいるまい。満天下の儒冠を頭に戴いて男子と称している者、ことごとく自らを愧じて死すべきである。

June 23

映画「剱岳 点の記」を観る

 

 劔に行ったのは10年前の8月、それから行っていない。「よし、また行ってみるか。どうにか元気のうちに!」、そんな思いが湧いてくる映画である。

 公式サイト→ http://www.tsurugidake.jp/main.html

 映画『剱岳 点の記』に封切の翌日(6/21)行ってきた。朝1番の上映は9時30分で、ビルの正面は10時オープンだから、United Cinema 入間 に9時過ぎに入るには後ろの駐車場のエレベーターを利用するしかない。1階では5人だったが、各階に停まってどんどん乗ってくるので満員となった。チケットフロアに降りると、扉の前に行列の最後尾があった。

 「まさか劔ではないよね」と家人と話しつつ並んだが、その”マサカ”である。売り場の前はごった返している。おっさんが行列の横を通って売り場に行こうとして、「あれっ?」という顔で引き返し後ろに並ぶ。みんも意想外なのだろう。 雨模様だったからむしろ人出が出たのかもしれないが、このシネコンプレックスによく行く身としてはこんなことは初めてだ。「大ヒットの予感?」が正夢ならめでたい。

  おぼろな記憶にすがって1999年のカレンダーを開けてみると、間違いない。8月6日(金)~9日(月)が劔山行である。金曜の夜にアルピコで新宿を発し、7日朝に室堂で起こされ雷鳥平から奥大日あたりを散歩して剣山荘に泊まり、8日劔山頂を経て北方稜線をたどり小窓雪渓から池の平小屋に泊まった。最終日は北股・近藤岩・南股・ハシゴ谷乗越と通り黒部別山を見やりつつ内蔵助谷から出合を経て黒四ダムから最終のトロリーに滑り込んで帰京した。

 3日間を好天に恵まれアルプス北鎮の稜線は最高の山旅だった。チンネやニードル、小窓の王とか言葉を聞いたことはあっても目にしたことのない〈モニュメント〉が眼前に展開すれば心躍る。われもまたミーハーであったことを確認せざるをえなかった。もっとも痛快だったのは劔山頂の混雑からスッと抜け出して北へ向う一瞬である。多くの登山客から「ウム?」といった無言の視線が注がれる。劔の一般ルートは南から来て南に帰る(それがカニのタテバイとヨコバイの一方通行であったとしても)ピストンである。殆どは元に戻る。私たちはさらに進む、北に行くのはバリエーションルートでしかない。

 山頂がいくら犇きあっていても、ここからはパタリと人が少なくなる。道標はない。踏み跡はあるが必ずしも正しくはない。ただ自分を信頼するだけである。というのはかっこよすぎて、実際は〈連れてってもらう劔〉だったから、リーダー任せの気楽な旅であった。毎年の積雪量や天候気象によってルートは変わっていく。途中で途切れる踏み跡は「やっぱり間違っていた、引き返そう」の痕跡である。あるいは禁止されている遭難碑への道であったりする。行き当たって、ゾッともする。リーダーたちが Route Finding に悩んでいる後ろで、私はボゥと流れる雲を仰ぎ足元のチングルマを眺めている。空は広闊であり地の果てには海がある。 

 天気がよければアルプスは最高である。小窓の雪渓の両岸には多くの滝が落ちている。劔沢北股の流量は激烈で渡渉は、濡れたり石を探して置いたり高巻いたり、一概ではない。でも、空は澄んでいる。池の平小屋はトップシーズンでも空いている。五右衛門風呂もよかった。この滝が、この流れが、富山湾に流れ入って、また空に舞い上がりこの山に降る雪となるのか。人もまた変わることない輪廻の中で生き死にするのである。

 この映画、浅野忠信や香川照之の熱演はむろんいい。だがこれはスッパリ言ってしまえば「絶妙の風景映画」なのである。名カメラマン木村大作が監督となって”権力”を存分にふるったファインダーから見た美の集大成としての風景---Sightseeing---そのものを堪能すればいい。原作の物足りなさを映画は陵駕している。どこをどうルートしたかも問題ではない。日本の自然は美しい。

 そしてともに働いて(Zusanmwnarbeit)創りあげる世界は感動する。エンド字幕が、キャストやスタッフあるいはその役名とか分担を記すことのない、「なかまたち」だけであることの象徴性にそのことをみる。その潔さを見よ!

June 02

宇宙論のはて

 

 先日(05/24)プラネタリウムを仰いだ。狭山丘陵のふところにある東大和市立郷土博物館に付設されているもので、散歩の途次の暇つぶしに入場無料の常設展示を覗いていたらプラネタリウムの投影をやるというので、200円を払ってもうすこし暇つぶしを継続したのである。

 プラネタリウムは20年ぶりくらいだろうか。前回は狭山市の中央児童館で秋の星座をみたようだったが、今度は春の大三角である。春は北斗七星(*1)がよく見える、この柄をのばしてみよう。紅い1等星アークトゥルス、さらにのばせば白い1等星スピカ、この二つの星から西方にのばした交点の2等星デネポラとの三角形が春の大三角である。一方スピカから先にのばしてからす座に至るのが春の大曲線。

 からす座はどう見てもカラスの形をみてとれないが、これは”闇夜の烏”だから。もともとカラスは白くアポロンの使いを務めていたが、恋人コロニスに間男がいるとウソをついた。怒ったアポロンは密会の現場に矢を放ち恋人を殺してしまう。コロニスの胎児は無事生まれて後へびつかい座になるが、カラスは黒く染められ釘で打たれ閉じ込められた。からす座の4つ星は4本の銀の釘であるとか。(これははじめて聞いておもしろかった)。

  (*1)北天の斗(ひしゃく)である七つ星。英語では Big Dipper (米:ひしゃく) あるいは Plough (英:鋤)

 ここらあたりまでは昔と変わるところはない。だが20年前と様変わりになったのは第1にCGの飛躍的進歩であり、第2に宇宙論の確定的定着である。豆球の明滅ではなく動画が躍動する、天球にはイラストが描かれる。(しかも総天然色だ!)。また、約〇〇億年といった曖昧な表現がなくなった。(宇宙の始まりは百数十億年前ではなく137億年前になったのである!)

 BIG BANG を知っているのは常識だし、私がそのことを解説する能力がないことも自明だから内容は省略する。問題はビッグバンの領域に足を踏み入れる前の心構えである。たとえば「宇宙は極端な高温と高密度の中から生まれた」といわれる。これをそのまま承認することが大前提である。間違っても、「高温で高密度の状態はどうしてそうなったのか?」とか、「それ以前はどういう状態だったのか?」とか考えてはいけないのである。

 禅問答の「父母未生以前(ぶもみしょういぜん)、本来の面目」というのがある。我は父の精と母の卵の結合の結果である。それ以前の父と母のそれぞれの中に我の萌芽があったことは認めてやってもいいが、父も母も誕生する前には我のカケラもなにも、なにもないであろう。「であれば自己とはなにか?」と問う。まぁそれが「空」なのであろうが、宇宙論とはそれに近い。

 ともかく始まりはビッグバンであって、その前を訊くのはナンセンスである。そもそも大爆発といっても空気のない状態であれば音もするまい、閃光だってないだろう。〈瞬間的な大膨張〉だけでは想像力が膨らまない(愚かなというかふつうのというか)人間たちにわかりやすい表現なのである。実体は想像をはるかに超越しているから、人間ごときが絵やCGにできるわけはない。

 膨張をつづける宇宙によって「銀河は地球からどんどん離れていく」という。これは噴飯ものである。そういった卑小な表現しかできない人間なるものの限定性が物悲しい。(どうして地球が主体となるのか?)。天の河を見て牽牛と織女の恋を思うのはロマンだが、生まれた月の星座によって人生を占うのは淫祠邪教のたぐいだなとも思う。その伝でいえば、幾多の人間の熱や知と膨大な時間と空間の事実を二次元の紙の上にさらりと書いて「歴史」と称するのも稀代のペテンである。

 ものには誕生があれば死がある。宇宙の終焉はどうなるかも考えたい。これも心構えが要求されるのは致し方ないとしても、未来論はなお区々であるらしい。しかしともかく「終焉はあるらしい」と聞いていくらか安堵した。出れば外は日盛りで子どもらが小川で魚を追っていた。 

May 18

ウトウの頭再訪

 

その初訪

 5月16日(土)、6年ぶりに”奥多摩の秘峰”善知鳥(ウトウ)の頭に登ってきた。ちなみに前回は2003年5月24日(土)である。そのときが初めてで今回が再度、地形図に道が記されていないタワ尾根上のピークである。ウトウの頭への登高欲を刺激されたのは2002年の秋のことであった。大菩薩から牛の寝通りをひとりで縦走した際に、2人連れのベテランと一緒になってその名を聞いた。鹿倉尾根の向こうに石尾根を眺めつつ休憩した時に、メインの山域はどこかを訊かれた。「まぁ奥多摩ですかね」と答えたところ、「ウトウの頭はご存知ですか?」と言われた。

 国土地理院地形図「武蔵日原」に1587mの三角点があって、「ウトウの頭」と目立って記してあるから名前だけは覚えていた。「日原鍾乳洞の上ですね。行ったことはありませんが地形図に載ってますね」と答えたら、「ほう、地図に載っていますか」と驚かれた。「昔は地図にその名がなくて知る人ぞ知る秘峰だったのものですよ。奥多摩を登りつくした後に登る山とか言ってましたな」、お年寄りふたりがうなずきあった。そんなことを聞いて、気が逸らない者はいるまい。

 02年から03年にかけての冬、奥多摩のバリエーションルートの書籍やネットでウトウの頭を調べてみた。コースには道標のたぐいは一切ない。トレースはけものみちと分別しがたく、びっしりとスズタケが密生して藪コキで多大の労力を費やさせられる。核心部はウトウの頭から先の岩峰でRoute Finding が厄介、スパッと切れ落ち冬は凍結していて甚だ危険である。ますます行きたくなってきた。山の会でさかんに「ウトウに登れば奥多摩の達人だ」と吹聴しまくった。春を待って6人で行くこととなった。

(6年前の思い出)CIMG0352

 当日は快晴、車で一石山神社の先まで行って「巨樹コース」の標識から取り付いたのが8:30であった。ミズナラの巨木に感激したあと道を間違って下ったりしたが、稜線にある石柱(東京都水道局の管理境界標)を忠実にたどって金袋山1325mに10:40。人形山は知らぬ間に通過していた。うっとうしいスズタケをかきわけかきわけ、クマ生態観察の自動シャッターカメラにストロボをたかれたりして11:13篶坂の丸(すずさかのまる)1456mに着く。そして、地に敷かれたアセビの白い花片を踏みつつ急登をあえぎウトウの頭に着いたのは11:53だった。

 黄色い嘴をもった海鳥を浮き彫り、丁寧に彩色された山名標が三角点の近くの木にぶら下げてあった。その裏には藤原定家作という(実はそうではないが)歌が彫ってある。

陸奥の卒土の浜なる呼子鳥鳴くなる声はうたふやすかた/みちのくのそとのはまなるよぶこどりなくなるこえはうとうやすかた

 この日は11:53にピークを発って大京谷のクビレに12:51、さらに直進して長沢背稜の縦走コースである水道局巡視路に飛び出したのが13:30であった。ここからは坦々と迷うことのない道を酉谷山14:30、小川谷林道を経て日原に17:00ころ下りてきたのであった。

再訪のメモアール

 この歳で6年前のことを脳内に留めておけるはずもない。2009年5月16日は曇天であった。奥多摩8:28着の電車は満員、下りたら予約のできないタクシーはすでに他人が先取りしていて、満員のバスに乗って東日原まで行く。今日は4人の山歩き。もう時間が遅いのか鍾乳洞方面に歩く人は誰もいない。小川谷橋から見下ろす高度感を楽しみつつ、神社を過ぎ燕岩のオーバーハングを見上げつつどんどん歩く。小川の大滝を過ぎた、なかなか「巨樹の森」とかの案内が出てこない。そのうち橋を渡って左岸に出てしまった。

(ミズナラの巨樹)CIMG0343

 これはおかしい。タワ尾根は川向こうで、こちらはヨコスズ尾根である。どうも行き過ぎたと気づいて戻り、神社から先では唯一の苔むした階段を登る。これが10:30、前回より2時間遅れている。規則正しいジグザグコースの山道を登る。間伐の作業道なのだろう、よく手入れされた山道である。そうするうちにミズナラの巨樹に出る、11:36。枯れた木の幹でサークルが作ってあり「中に入らないで見てください」との掲示。前回は木に登って記念撮影をした。ここからは稜線を登っていくのだ。

(人形山)CIMG0344

 人形山1176mが11:47、コースが変わったのか金袋山は通過しなかった。道は森の中のしっかりとした一筋道で、行けども行けども密生のスズタケは現れない。スズタケどころか草もほとんどない、広葉樹の明るい新緑なのにである。ゆったりとした茫洋たる尾根、そうかタワ尾根とは名の通りの幅の広い緩斜面の尾根だったのである。12:25、篶坂の丸に着いた。美しいブナの巨樹の広場である。ガスが地を這って忍んできた。石灰岩採掘の騒音も聞こえてこない。秘峰とはいえまい、人けのないめっけものの静かなハイキングコースである。

(篶坂の丸)CIMG0347

 ウトウの頭に着いたのは13:18。彩色された手彫り山名板もなにもない。誰かが盗っていったのだろう、悪いやつがいるものである。山に登る連中がみな善人とかツユ思わないが、作った人の精魂をガメってエツにいっている者には天誅あってしかるべしである。 

(ウトウの頭)CIMG0349

 腰を落ち着かせることなくさらに進む。それなりの試行錯誤を経て大京谷のクビレには13:58、ガスが濃くなって時間的にもここでエスケープすべきであろう。左に孫惣谷林道へ下りようと道を探すが、なかなかしっかりしたトレースが見つからない。テープを見つけても先が続かない、薄暗い谷は見通せず沢を下る決心がつかない。尾根に上ったり下ったりして道を探すが見つからない。山中彷徨2時間弱、ついに思いを切ってと決心し、ウトウの頭に這い戻ったのが15:15。降りだした雨の中を急きながら早足に登山口に下りたのは16:45であった。

(大京谷のクビレ)CIMG0350

 助かったわいとダラダラ歩いて東日原のバス停に着いたのが17;19で、バスは17:22に出た。これが18:50の終バスの1本前だったから、みなで「悪運つよいやつよのぉ」互いを指さしあったのだった。

瞠目の変化はなぜ?

 ウトウの頭にしろタワ尾根にしろ、この6年で道が開かれたり有名観光地になったわけではない。依然として地図には道がなく、観光マップにも載っていない。むしろ「巨樹コース」すら廃絶されたようである。秘峰とは地図に道がないのではなく、ルートが判然としなかったり登るに苦労するという「難易度が高い」から言うのだろう。ウトウの頭から先の岩峰は変わることなかったが、全山を覆うスズタケは影も形もなかった。まるっきり様変わりである。

 そもそも登山道ではないのだから刈り払いはありえないが、シカの駆除のためにそうしたとしてもまた生えてくるだろう。それが草も生えぬとならば除草剤でも撒いたのかと、あらぬ疑念も出てくる。水道局の水源林でそんなことをするわけはないと思っても、なぜあれほど驚くべき変貌を遂げたのかと考えたら、謎は深まるばかりである。

 聞くは一時の恥とばかりに、翌5月17日に奥多摩ビジターセンター(0428-83-2037)に電話で訊ねてみた。話によれば「シカの個体数が増えて食害が拡大していることと、数十年に一度というスズタケに花が咲いて枯れる現象の相乗作用ではないか」とのこと。スズタケの刈り払いとかの人為的な行為は実施していない---それはそうだろう、全山のスズタケを刈り払う費用は膨大で効果もうすい。

 スズタケは亜高山帯の植物であって、その花が咲いて枯れるというのは地球温暖化の影響もあろう。あるいはシカの個体数の増加が末期的爆発となって、残ったタケのササも硬いフシも食べつくしたのであろう。タケがなくなって日が射し草が生えはじめたら、なおさらすぐに食べてしまって地表に緑がなくなってしまった。見通しがよくなってクマもいなくなり生態系も変わり、植生も変わって景色もかわってきたというのか。

 ついでに観光案内所(0428-83-2152)に、駆除したシカの肉を使って奥多摩町の名物料理にするという計画はどうなったかを訊いてみた。ところが最近とれる数が少なくなって、町内のレストランや食堂でいつも可能とは限らなくなったそうだ。展望が開ければ住めなくなって、シカもなにもドンドン奥山に逃げ込んで捕えられなくなってきた。ただし「案内所ではいつでもレトルト食品で売っています」とのことである。

 こんな短い間に山革(あらた)まったりすると、なにか恐るべき変化が忍び寄ってきているのかもしれないと思ったりする。そういえば、6年前のメンバーで今回一緒した人は誰もいない。あるいは転居し、あるいは会を変わり、あるいは幽明境を異としてしまった。自然よりも人事の無常が迅速なのは当然であろうけれども…。

May 08

杜甫の曲江

 

 杜甫の『曲江』は”人生七十古来稀なり”の章句が70歳の異名としての「古稀」の出典になったことで知られている。「詩聖」と称される杜甫(712~770)は、また読書人の通例として科挙の第に挑んだが終に挙げられることはなかった。それでも中央の官職に就いたのことが一度だけあった。安禄山・史思明の乱(755~763)に際し流浪し---”国破れて山河あり 城春にして草木深し”の『春望』に絶唱したように---、賊に囚われつつも脱走して蒙塵の粛宗をその行在所に尋ねた功績による。

 忠誠を愛でられて左拾遺という役を宛てられ長安に住んだ。だが嫉視讒言うずまく中央官界の遊泳は杜甫において無理であった。すぐに”登校拒否”となって、ただ春の遅い日を酒浸りだらだらと送るのみとなって脱落していった。そううした春の日の、酒瓶を友に酔い痴れる虚しい思いの詩が『曲江』である。その一と二を以下記載する。なお、曲江は長安の東南にある池。長安風流人士清遊の景勝の地といわれる。

 

曲江 一

一片花飛減却春 風飄万点正愁人 且看欲尽花経眼 莫厭傷多酒入脣 江上小堂巣翡翠 苑辺高塚臥麒麟 細推物理須行楽 何用浮名絆此身

いっぺんのはなとんでげんきゃくするのはる / かぜばんてんをひるがえしてまさにひとをうれへしむ /  かつめにふるはなのことごとくをみんとほっす / おおくさけのはいりしくちのいたむをいとふなかれ / かうじょうのしょうだうにひすいはすくひ / ゑんぺんのこうてうにきりんはふす / こまかにもののりをすいせばすべからくかうらくすべし / なんぞふめいをもちゐてこのみをほださん

(釈) ひとひらの花びらが飛べばそれだけの春が散っていく / 風が花吹雪を巻き上げれば人々は逝く春を惜しんで愁いに沈む / 目にふれる花の悉くをいまはしっかり記憶に留めておこう / 酒を飲みすぎた唇が荒れているのを嫌ってくれるな / 池のほとりの小さな亭(ちん)には嫋嫋たるカワセミが棲んでいるが / 芙蓉苑の丘上の塚には麒麟(=有能だった人々)の挫けた志が眠っている / 物の道理を正しく思えばいまは三春の行楽に浸るしかあるまい / どうしてこの身を虚名に恋々と繋いでいる必要があろうか、もう無用なのである

     

曲江 二

朝回日日典春衣 毎日江頭尽酔帰 酒債尋常行処有 人生七十古来稀 穿花蛺蝶深深見 点水蜻蜓款款飛 伝語風光共流転 暫時相賞莫相違

てうよりかえりてひびしゅんいをてんする / まいにちかうたうにじんすいしてかえる / しゅさいはじんぜういくところにある / じんせいしちじうこらいまれなり / はなをうがつのけうてうしんしんとみる / てんすいのせいえんかんかんととぶ / ごをつたふふうかうともにるてんす / ざんじあいせうしてさういすることなかれ

(釈)(朝廷の)役所に出でんとしていやになって今日も戻り春の官服を質する / まいにち池のほとりの酒亭の立ち寄っては泥酔して帰宅している / 酒の借金はいたるところにある / 人間七十年も生きたものはめったにいまい / 花から花へわたる揚羽の蝶は奥へ奥へと縫い飛び / 水に尾を叩きつつトンボは悠然と飛んでいる / 私はこの美しき風光に言葉をかける、ともに流れていこうではないか / しばらくの間を、ともに愛でつつ、ともにそむくことなきままに

 

 この二篇、併せて読めば含蓄が分かるというか、杜甫の底意がはっきりみてとれる。自らと官職との隔意とうかか官途に就くことの嫌悪(相性があわないか能力がないかは別として)があり、一方で陽光あふれる美しい自然の眩しさがある。その極端な明暗の差にセンシティヴな芸術家は酒に逃避せざるをえない。池のほとりには色あでやかな解語の花(=美妓)が咲いている、丘上には朽ち果てた累々たる死屍が眠っているのだ。もう行楽に耽溺するほかないのである。

 この詩に記されら「古稀」は祝うべきものとしてのそれではない。70歳まで生きることはないだろうから酒でも飲もうとする自棄じみた考え方がある。酒飲んでいて70歳まで生きたものはいないのだという諦念がある。むしろ70歳までのうのうと生きている者は、世の腐敗をも憤らず鉄面皮に過ごしてきたに違いないという揶揄がある。中国では「古稀」を祝うこと稀であるというは、その典故によればもっともなことなのである。

 

  

 

May 05

新緑の武甲山

 

 連休だから山に行きたい。今年のGWの天気は今のところ絶好である。そうなると猫だって犬だって行きたくなるだろう。うちは犬も猫も飼っていないのだが厄介なことに家人がいる。普段は山なんて誘っても(誘わないが)行こうとしないのだが、新緑と紅葉だけは「連れて行け」と強要する。「どこでも行くから」というのならまだ酌量の余地があるが、そんなことがあるわけがない。なんといっても30数年も家に居ついている狸なのである。

 泊りはいやだ日帰りに限る。寒いのは嫌だ、高さは2000m以上はムリだ、だが自然は十分堪能したい。歩行時間の合計は4時間半、うち登りは2時間。自分はわがままだから他人とは行けない。(私もまたまるっきりの赤の他人であるが…)。重力の作用によってすべての肉がだらりと垂れ下がるにつれて、DP(Domestic Power)もまた磐石不動の重みを増すのだろうか? そんな虫のいいプランができるはずもない。八ヶ岳は泊りがあり山が高すぎる。雲取山も2000mあって歩行時間がオーバーする。今の季節は新緑だろう、そうなりゃ奥武蔵だろうが、ちょっと低すぎると私は思う。「そうだ、武甲山の新緑に行こう」、年に何度も登るのだがまだこの季節は行ってないはずである。

 「武甲山にしよう」というと、2度ほど経験があるので「武甲山ならいいよ」と安請合った。その2回とも横瀬からタクシーで生川の表参道から登って裏参道の浦山口に下りた。2度目のとき、横瀬駅前のタクシー乗り場から黒電話をグルグル回しても応答がない。ケータイで何度も呼び出したら、やっと出た人が「営業は7時からです」といったのには驚いた。山は朝の天候次第だし、あるいはその日の体調にもよるから、予約は窮屈である。だから今回は浦山口から歩こうと提案したら乗ってきた。

(長者屋敷の頭へ)CIMG0312

 私は3月7日に行ったばかりだが季節はまるで違う5月3日、始発電車で秩父に来て御花畑6時36分発を浦山口で下りた。不動の清水で2Lを満タンにした。前日に入間アウトレットのMLLETで買った夏の登山シャツは心地よい。橋立川の詰めは8時、ここまでは家人の足も順調で「すごいスゴイ」とホメ殺したのだったが……。

(シラジクボのバイケイソウ)CIMG0322

 30分で300m一気に登って武甲の稜線にたどり着くと、桜の花片が地に白かった。長者屋敷の頭までの尾根筋は江戸時代の街道のような桜並木で、いつかはその満開を見たいと思いつつも今年も1週間遅かった。それにしても新緑、初夏の山を淡い青(=日本の緑)に染める嫩葉は胸躍る。「山笑う」の主語は山ではなく山を見る私たちとしか思えない。わかばは「若葉」よりも「嫩葉」がふさわしい。”若”はしなやかな毛髪を梳くからだの柔らかい若い女の象形であり、”嫩”もわかくてやわらかいものを表すが会意としては軟でやわらかくたれた様となる。嫩芽(どんが)はやわらかい若芽、嫩晴(どんせい)は長雨があがっての久しぶりの晴天、嫩緑(どんりょく)こそ若草や若葉の緑である新緑。女ではない植物の若々しさの字なるか。

(小持のツツジと武甲)CIMG0323

 長者屋敷の頭は9時10分、武甲山頂は10時30分。眺望はむんむんと立ちのぼる霞にただおぼろであった。さすがGWとあって、小学生の子供をつれた若い両親がわんわんいる。山に若い人が戻ってきたと思うのは早計か、足元の拵えはスニーカーがほとんどなのだから。人の来なくなる山は自然に還るのではなく、ひたすら無となって消えるだけである。家人はここで下山するつもりだったろうが、私は「登りはあと40分だけで下り一方だから」と誤魔化して---なにしろ何ヶ所もの<熊出没注意>の看板を見てビビッてもいたから---、「じゃそうしようか」ということとなった。

(大持のカタクリ)CIMG0331

 それから一気に300m下がるシラジクボあたりには、高菜というかミズバショウに似た植物が群生していた。---(*その後調べたらこれはバイケイソウといいユリ科の多年草、亜高山から高山の湿地または日当たりのいい草地に群生する。強い毒性をもち毎年間違えて食し何人か死に至っているという)。---小持山は12時10分、ヤマツツジがほんわかと咲いて向こうに武甲がぼんやりしている。大持山には13時10分に着いたが、カタクリが(ありもしない)田舎のうぶな乙女のようにひっそり息を潜めていた。ウノタワの叢はまだ萌え出ていなかった。急傾斜の砂利と沢伝いを経て林道を歩き、名郷のバス停には16時10分。家人は初めての小持から大持の岩稜やウノタワの静謐には喜んでいたが、プリミティヴな難路にへばって不平タラタラであった。ともかく16時18分の飯能行きに乗って帰った。

(ウノタワの涸沼)CIMG0338

 まばゆい青には命があふれて冥加に尽きたのであった。なお狸は例のごとく、「現地でブーブー、戻って寝たら行ってよかった」であったことはいうまでもない。

April 24

西海のきらめく陽光

 

故郷の山河

 親戚の法事もあって佐賀に帰っていた4月19日(日)、友人の誘いで初夏の陽光を存分に浴びてきた。言葉としての「故郷の山河」とは変わらざるものとの含意があるだろう。文学表現として「国破れて山河あり」(杜甫『春望』)あるいは「故郷は遠きにありて思ふもの」(室生犀星『小景異情』)である。

 前者は人の世の無常と自然の不変、後者は過酷な生存競争の場である都会と変わらぬ愛で抱擁する故郷がある。愛と甘えは捉え方だけの違いだとすれば、抱擁されるのはズルズルと堕落するのと変わりないとも解される。だから故郷には戻らないと若い作家である犀星は決意する。杜甫はいつ家郷に戻れることやらと流浪を悲しむ。もっとも、杜甫にしろ犀星にしろ通底するものは重なっている。有為転変する都(=競争場裡)の人生といつまでも変わらないわが田舎(=無為自然)のたたずまい(風景には肉親や近隣の愛情が含まれる)の対比である。

 日本が戦後復興期から成長期に劇的に転換したメルクマールは1964年の東京オリンピックであった。故郷の町の隅々の路地までが舗装されたことに、「東京や博多なみになってきた」と感慨を覚えた記憶がある。だがこれは地面のことで空中にビルや建造物がニョキニョキ造られたわけではない。風景はさほど変わらなかったのではないか。むろん東京は行くたびに変貌していたのであるが。

 日本経済の成長が加速したというか膨張したというか、良くも悪くも質的な変化をきたして先進国グループに入ったなと感じられるようになったのは1970年大阪万博を契機とした。たとえば景色としての京都の町であるが、定点として四条高倉にある京都大丸の屋上からの眺望としては70年代前半まではさほどの変化はみられない。しかし70年代末期には画然と変わった。数年ぶりで屋上に上ったら、東山や叡山のシルエットは変わらないのに目に違和感があった。見えていたものが見えなくなった。東京資本のマンション建設が進み街が高層化していたのだった。

 80年代から10年は日本の光景を一変させた。さらに90年代になると、農地への愛着もしくは執着が萎えて役人が地図上に自由に線を引けるようになり、既存の道路の改良を超えて大胆な新設が次々に行われた。故郷を車で走る際に過去の記憶は邪魔になった。カーナビのない車は闇夜に灯りなくして歩くに等しいのだ。

 つまり、故郷の山河は効率と人為的色彩を増して発展し、過去の造形と自らの思い出は荒廃していくのである。

長串山公園

 長串山(なぐしやま)公園は長崎県北松浦郡鹿町町にあるツツジの名所である。といっても私にとっては初耳だった。18歳までの知識ではツツジの名所は基山の大興善寺か武雄の御船山公園くらいが関の山である。クラスメイトだったM君が「そんなもんじゃない」という。「規模が違う」と、さらに「景色が違う」とも。くじゅうのミヤマキリシマもツツジであり、大船山や三俣山の山腹を染むる光景は規模雄大である。「だがここは海が見える」のである。たんなる海ではない、西海国立公園の九十九島の海がツツジとともに見える、「だからオススメ」である。いまや全九州から見物客が殺到して大人気、とも。

 鹿町町は佐世保の北、というか選抜優勝校長崎県立清峰高校のある佐々町の隣で、平戸市の南に位置する。日本最西端の鉄道駅は松浦鉄道たびら平戸口駅である。この鉄道はかつての国鉄松浦線、有田から伊万里・松浦・平戸口・江迎・佐々を経て佐世保までのルート。九州島西端部の山肌をぐるりと回っている。山はそのまま海に落ち、海には緑の島々が散在している。

(長串山公園のツツジ)CIMG0278

 佐賀を6時30分に出てR34、武雄北方ICから長崎道に乗りさらに西九州道路を通って佐世保からR204。路地のような道をサッサと長串山へ近づくので感心すると、「なぁにナビだよ」、「そうかやっぱり」。こうして8時30分に公園入口の駐車場に到達した。

 10万本と称する久留米ツツジや平戸ツツジは7~8分咲きで見事である。駐車場の車は鹿児島・山口・福岡ナンバーとか様々、夜っぴいて千円高速でやってきたのだろうか? イベント会場は「第28回長串山つつじまつり」の看板が上がっている。1981年が第1回ということになる。67年に故郷を離れた私が知る由もない。あとで調べたら69年から植栽を始めたとか。

(北九十九島の海)CIMG0283

 公園は急傾斜の山肌にジグザグの遊歩道を設け、ビジターセンターがあり、池やローラー滑り台などで趣向をつけてある。直登する木製の階の頂には金比羅さんが祀ってあるのが漁師の町らしい。見下ろすと山の続きにそよとも動かない海がある。九十九島は正しくは大村湾内のそれだから、鹿町沖は北九十九島と称している。いわば群馬県嬬恋村が北軽井沢と自称しているのと変わらない。初夏の陽光が朝の海に輝いている。これはオススメだなと思う。

志々伎山

 同じくクラスメイトだったS君は大学山岳部出身の山男である。もっとも若いころはヤサ男だったろうから、山男のイメージではない。中学2年の夏休みクラス全員で八幡岳(佐賀県唐津市847m)にキャンプに行った折に、頼まれもせず進駐軍払い下げテントをかついで登った奇特人である。九州の盛夏は暑い。山はカンテラを下げて夜登るを通例とする。S君があまりの熱暑にバテテしまったとて誰が同情しよう。まさかそのテントに女子を勧誘しようなどとは考えもしなかったではあろうけれども。

(志々伎山の穂)CIMG0287

 M君とS君はつるんで九州の山を攻略している。時々私もお相伴してネイティヴならではの山に登れることは人世の幸である。九州人は日本百名山といったせせらしい(正確には”しぇしぇらしか”)ことにかかずらないのである。日本にあっては辺陬であっても東アジアでいえば交通の要衝にあたる。漢拏山(ハルラサン・済州島1950m)も智異山(チリサン・全羅南道1915m)も玉山(ユイシャン・台湾3952m)だって目と鼻の先である。だからまず、九州百名山なんだという(?)。

 その理屈は了解に苦しむが、おもしろい山に登れるのは楽しみである。爺や三人組がツツジ山ごときを一義とするわけわない。本日の目的は九州百名山の一志々伎山(しじきさん)347mなのだ。平戸のマッターホルンともいわれる鋭鋒は海上に聳立して、海を渡ってくる船の絶好の標識だったと思われる。太平洋からの富士山、東京湾からの大岳山、琉球弧からの開聞岳と同じく、東シナ海から本土を目指す目印は志々伎山なのである。

(山頂から東シナ海)CIMG0290

 平戸島は南北50kmにもならんとする大きな島である。平戸城址も平戸大橋も北端にある。志々伎山は南端である。南端の宮之浦から五島までは快速船の海上タクシーで30分だが、宮之浦まで大橋から車で50分かかる。途中には壮麗な威容を誇る紐差天主堂もある。この天主堂は鉄川与助が1929年に建てた。西海地方の気品ある教会建築はすべてこの棟梁の作である。いつか彼のことも書くことがあるだろうが、もっと見て歩かねばならない。

 志々伎山は志々伎神社の山である。秀麗な山容は神が降臨する神奈備(かんなび)にふさわしい。祭神は十城別王(トシロワケノキミ)という。伝によれば倭武尊の第六王子で仲哀天皇の弟、神宮皇后に従って三韓に渡海して後ここに土着して防衛に任じたとある。登路の途中に腰掛岩があって、ここに座って敵の動静を見ていて流れ矢に当たって死んだと書いてある。神さんが死んだらあかんがなと思う。宮居が四つもあって、志々伎湾内に沖津宮、浜辺に辺津宮(址)、山に中津宮と山頂に上津宮がある。

(山頂の上津宮)CIMG0291

 長串山を9時30分に出て中津宮の駐車場に11時ころ着いた。ここから亜熱帯性原生林の中を40分ほどで頂上に着く。穂先への登路は反時計回りに岩場をグルグルと上がる。頂稜は360度遮るものとてない岩峰ではろばるとした気分に満たされる。この日夏日で五島列島は霞んで見えなかったが、海の澄明は見てとれた。この国の西の海果てである。見えない先は大陸となる。

 頂稜の一角で昼食をとる。ピューヒョロと長閑に青空を舞っていた鳶が襲ってくるのはびっくりだ。頭に被ったタオルを取られそうになった---実際足先に旗のようにヒラヒラさせつつ飛んでいるのも見た---。狭い絶壁の上で危険この上ない、しょうがないから立ちながら食事をとる。下りは麓の鳥居まで歩く。この参道は苔むしてえぐりに抉れていて古い歴史を感じさせる。なにしろ神社は壱岐対馬を除く長崎県唯一の延喜式内社なのだ。麓には円満寺という神宮寺があったが、廃仏毀釈でいまは阿弥陀寺という寺に変わった。

(平戸城遠望)CIMG0296  

 平戸の町は1965年3月以来44年ぶりの再訪であった。当時は平戸口からフェリーで渡り町はすべて歩いて回った。青い海に飛ぶ鴎を見て牧水の「白鳥はかなしからずやそらの青海のあおにもそまずただよふ」と、若さの感傷に耽ったことも懐かしい---ツヤつけやがって---。平戸の町はともかくとして、志々伎山となると交通の便を思えばまた来ることは多分あるまい。だがいい山であった。西の海の果てに沈む夕日をまた見にこよう。

 平戸瀬戸を行きかう船を露天風呂に浸りつつ眺めながらそう思う私であった。

 

 

April 11

春宵一刻値千金

 

春夜

 満開の桜のひまに仰ぐ青空もいいが、甘く香る春の宵の風情はなんともいえず、自らが生きてあることに陶然となってしまうのである。「春宵一刻値千金」、まさに文字通り千金に換えがたい一刻。誰がこの句を創ったかと思いを巡らせると、造物主が人間に文章を預けたことに深甚の謝意を捧げたいのである。その天才は蘇軾、詩題はそのものの「春夜」。

春夜  宋 蘇軾

春宵一刻値千金 花有清香月有陰 歌管楼台声細細 鞦韆院落夜沈沈

しゅんしょういっこくあたいせんきん はなにせいこうありつきにかげあり かかんろうだいこえさいさい しゅうせんいんらくよるちんちん

(釈)春の夜のいっときいっとき、生きている喜びに包まれて至福の時間がもったいない。 桃李一時に開き花々からはえもいわれぬ香りが漂い、月は朧に雲間に浮かんでいる。 管弦に歌の高唱は止んで、高殿の宴はて、ひそひそ声音は忍びやかに。 後宮の中庭にブランコの揺れる音、夜は更ける、更ける、沈沈と

 高校の教科書では「歌管楼台声寂寂(かかんろうだいこえせきせき)」とあった。細細は(小さな声で)、寂寂は(声を忍んで)であろう。平仄はどうか詳らかでないが(第三句なら縛りはうすい?)、宴果てたあとの寂寥感なら寂寂がいいのかもと思う。

月光価千金

 「月光値千金」というジャズの曲があった。伊東ゆかりとかが歌っていた。調べたら1969年のリリース、はるか昔の話である。この曲の原題は「Get Out and Get Under The Moon」で1928年、ポール・ホワイトマンが歌ったとある。昭和3年というから同年になるが(?)伊庭孝が訳詞して、誰もが知っている「春宵一刻値千金」をパロって「月光価千金」と銘打ったのがよかった。天野喜久代が歌って日本でもヒットし、以後延々と歌い継がれることになった。

 メロディーは不変ながら、歌詞はその後転々と変化していった。もっとも原詩の季節は6月である。ジューンブライド(June Bride)が結婚を掌るローマ神ジュノーから祝福されるというより、最も季節がいいということなのだろうと納得できる。

Get Out and Get Under The Moon

When you're all alone any old night  And you're feeling out of tune  Pick up your hat close up your flat  Get out and get under the moon

月光価千金(伊庭孝:詞)

ただ一人寂しく悲しい夜は 帽子を片手に外へ出てみれば 青空に輝く月の光に 心の悩みは消えて跡もなし

(ディック・ミネ:詞)

月白く輝き 青空高く 木ずえの青いを 我によせて さびしそう その人 心に消えて 楽しくときめく 胸の思い

 日本ならやはり春4月、この季節足取り軽くというか、酒に酔って蹌踉となるかはともかく、月光の下を彷徨う楽しさは痛快極まりないだろう。

春夜桃李園宴序

 佳節の宵は李白で締めなくてはなるまい。

春夜桃李園宴序 唐 李白

夫天地者萬物之逆旅也 光陰者百代之過客也 而浮世若夢 爲歡幾何 古人秉燭夜遊良有以也 況陽春召我以烟景 大塊假我以文章 會桃李之芳園序天倫之樂事 羣季俊秀皆爲惠連 吾人詠歌獨慚康樂幽賞未已高談轉清 開瓊筵以坐花飛羽觴以醉月 不有佳作何伸雅懷如詩不成罰依金谷酒斗數

春夜桃李園に宴するの序 唐 李白

夫れ、天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり。 而して、浮世は夢のごとし。歓をなすいくばくぞ。古人燭をとって夜遊びしは、まことにゆえ有るなり。 況や、陽春我を召くに烟景をもってし、大塊我に仮するに文章をもってするをや。 桃李の芳園に会して、天倫の樂事を序す。群季の俊秀は皆惠連たり。吾人の詠歌は独り康楽に慚ず。幽賞いまだやまざるに高談うたた清し。 瓊筵を開きてもって花に坐し、羽觴を飛ばしてもって月に酔う。佳作あらずんば、何ぞ雅懐を伸べん。もし詩成らずんば、罰は金谷酒斗数に依らん。

(釈)春の夜に、花ざかりの桃李の園で従弟たちと宴をともにし、皆で高雅な想いを詩文にして編んだ――その序

この天と地に画された壮大な空間はすべてのものを宿す旅籠であり、とどまることのなく過ぎ行く時間は永遠の旅人である。 であれば、人の世は夢、どれだけの歓をつくせるというのだろう。いにしえ人は夜いたっても遊びをやめず、手に灯りをもって遊びつづけたという。まことにもっともなことである。 まして、陽光あふれる春が霞たなびく光景で私を招き、造物主は私に文章を仮託してくれているのだ。どうして遊ばないでいられようか! 美しい桃李の花園で一門の従弟たちと会し、春の夜の宴を催した。弟たちはみな詩才にすぐれていい作品をつくったが、ひとり私の歌だけは兄として恥ずかしいかぎりだった。たがいの詩作を味わい褒めて話しがつきぬまに、春を怨む声が次第に高くなってきた。 さあ、玉のむしろをしいて花の上にすわり、盃を交わしつつ月に酔うこととしよう。この風流、このみやびな想い、いい詩作あってこそ表わせるものではないか。 よく聞け弟たち、詩を作れない者は罰として酒一斗とするぞ!

 さても、酔生夢死よの~。